フロマGのチーズときどき食文化

馬鈴薯とジャガイモ

2018年9月15日掲載

馬鈴薯とジャガイモ

商品名は「ばれいしょ」

馬鈴薯はジャガイモだという事を知らない人が増えてます。でもジャガイモの正式名?は「馬鈴薯」あるいは「ばれいしょ」です。なぜかといえば農水省や農協関係はみなこうなっているからです。ジャガイモという名の出典は今のジャカルタ経由でオランダ人が長崎に持ち込んだイモを、ジャガタライモといったのが始まりという納得しやすい説があります。今は圧倒的にジャガイモという名が優勢ですね。先日スーパーに行ったらこれを逆手にとって「ばれいしょ」というブランド名でメークインを売っていた。面白いアイデアですね。明治から昭和初期の文学作品に登場するのは皆「馬鈴薯」です。薄倖の歌人石川啄木の歌には「馬鈴薯のうす紫の花に降る 雨に思へり 都の雨に」という一首があります。
 

うす紫の馬鈴薯の花

南米アンデス山地原産のジャガイモがヨーロッパに伝えられたのは16世紀とされています。先年、カナリア諸島へ行ったらジャガイモ料理が頻繁に登場するので調べてみました。大航海時代のカナリア諸島は新大陸へ向かう基地となった所で、帰りの航海の食料として新大陸で積み込んだジャガイモの残りをこの島に捨てていったそうです。このジャガイモがこの島で栽培され、かつてはヨーロッパに輸出するまでになったとか。しかし当時は聖書に出てこない奇妙な食物で、食べると病気になるなどの迷信が根強く、一般に普及するのに数百年もかかるのです。それに際立った味がない事で人気がなく「貧者のパン」などと言われ長い間家畜の餌でした。しかし当時のヨーロッパは飢饉が頻発します。このため18世紀のプロイセンのフリードリッヒ大王は冷涼な土地でも育つジャガイモの栽培を国民に強制する。その結果食料が豊かになりフランスなどと戦った7年戦争に勝利するのです。
 

カナリア諸島のジャガイモ料理

この7年戦争に敵方として従軍し捕虜になったフランスの農学者パルマンティエは、収容所で食べたジャガイモの優秀性に気づき、帰国後はもっぱらジャガイモの普及に努めるのです。当時の王妃マリー・アントワネットにジャガイモの髪飾りを贈るなど涙ぐましい努力をします。やがてフランス革命が起こり、革命政府が成立すると彼らはパリの公園などの空き地にジャガイモを植えさせたそうです。革命の発端は飢えた国民の「パンよこせ!」運動がきっかけだったので、まず国民を飢えから救わなくてはならなかったわけです。
 

サヴォワ風ジャガイモのグラタン

こうして19世紀に入るとジャガイモはフランスの庶民の間にも浸透し、ポム・ド・テール(大地の林檎)と呼ばれ料理にも広く使われるようになるのです。淡白な味のジャガイモは油との相性がよく、パリの橋の上の屋台で売られていた拍子木切りの揚げジャガが人気になり、その橋の名を取ってポン・ヌフ(Pont Neuf)と呼ばれます。これが現在のフレンチ・フライになったとか。さらに輪切りにした揚げジャガからポム・スフレという料理が生まれ、アメリカに渡ってポテトチップスになるのです。こうしてジャガイモはフランスの庶民の食卓にも浸透していきます。ジャガイモはチーズとの相性も抜群で、アルプス地方では多くのグラタンが生まれます。フランス中央高地の修道院で生まれたアリゴは、今では現地の三ツ星レストラン、ミッシェル・ブラスのメニューにも登場します。

ミッシェル・ブラスのアリゴ

この8月に「世紀のシェフ」と呼ばれミシュランの星を31個も獲得したというジョエル・ロブションが亡くなりましたが、彼のスペシャリティーの一つは「究極のマッシュ・ポテト:Purée de pomme de terre」だったといいます。アンデス山脈のティティカカ湖畔あたりで生まれたジャガイモは、やがてヨーロッパに渡り「貧者のパン」といわれながらも数百年かかって超一流の料理にまで上り詰めるのです。