フロマGのチーズときどき食文化

カマンベール伝説を探る

2017年9月15日掲載

初代マリー像の古い写真

資料を整理していたら、1998年のフランスのル・モンド紙に載ったカマンベールの話を翻訳転載した切り抜きが出てきた。要約すると、フランス大革命の頃ノルマンディーで生まれたカマンベールは、近隣の町の市場で認められ始めた。まだパリには出ていなかったが最も都会的なチーズとして人気があった。1850年頃になるとパリの中央市場でわらの上に裸のまま並んでいた。地方産のチーズのなかでは一番愛らしく田舎臭いエポワッスのような悪臭がなく、何よりその白さが原料乳に牛糞が混じっていない証とされた、などと書いている。ここでもフランス人特有の偽悪的な表現が出ているのです。

スイス産カマンベールもあった

このカマンベール・チーズの開発者とされるマリー・アレルのもとに亡命司祭が身を寄せ、彼がブリの技術を伝授したという話。彼女はその技術を娘に伝えると、娘夫婦が協力してチーズの品質を高めノルマンディー地方の人気チーズに育てる。さらに、ナポレオン三世に献上し、カマンベールはパリでも人気のチーズとなる。そして20世紀になると、その人気があだとなって無数の模造品が現れ、それが海外にまで及び、ノルマンディーの本家のカマンベールは危機に瀕する。21世紀になると、カマンベールの信奉者というアメリカ人が現れて、マリーおばさんの記念碑を建設するも、戦乱による破壊。そして再建に至るまでの物語が、詳細に書かれているのが「美食の歴史2000年:原書房」という本です。そして、筆者はフランス人で、彼は最後に「この物語は真実ではない」としているのです。

都会的風貌の2代目のマリー像

マリーおばさんから百年。ノルマンディーの田舎を飛び出したカマンベールは、国内はもとより、近隣諸国も加わって大量に生産されるのです。脱脂乳で作った粗悪品も堂々と売られるなど、もうノルマンディー産こだわる人はいなかった。そんな状況の中1926年のある日、カマンベール村に近いヴィムーチェの町に、カマンベールで胃腸の病気が治ったというアメリカ人が現れて、恩人、マリー・アレルの墓に花を捧げたいといった。町の人は驚いた。誰もマリー・アレルの墓なんて知らなかった。手を尽くしてやっと娘婿の実家の墓が見つかった。目的を果たしたこのアメリカ人は歓迎会の席上で、マリー・アレルの記念碑を立てると宣言した。そして、その2年後記念碑は完成し、盛大な除幕式が行われる。伝説が形になったのです。このことが話題になると、このチーズの誕生の地であるノルマンディー産のカマンベールがやっと正当に評価され始めるという効果を生むのです。

初代マリー像のレプリカ

しかし、この記念碑は1944年、例のノルマンディー上陸作戦で破壊されるのですが、再度アメリカの乳業会社と社員達の寄付によって再建されます。それが3番目の写真です。この町にはカマンベール博物館があり、そこには初代のマリー・アレル像のレプリカがあって、こちらはいかにも農家のおかみさん風ですが、2代目のマリーは都会的な風貌に作られているのは時代の気分というものでしょうか。チーズの方も表皮が真っ白なカビに覆われ、洗練された姿になるのは20世紀に入ってからだそうです。

真っ白な姿になるのは20世紀