乳科学 マルド博士のミルク語り

チーズの日

2016年10月20日掲載

11月11日は「チーズの日」ですね。何故この日が「チーズの日」なのか、については和仁皓明先生が乳業ジャーナル(10月号: 36-40, 2012)にお書きになっています。文武天皇4年(西暦700年)旧暦10月(新暦で11月)に「遣使造穌」の勅命を全国に発したことを根拠に設定したとのことです。「11」を横にすると「ニ」で、「ハイ、チーズ!」で「チ」を言うときの口の形にも似ています。なので、ゴチャゴチャ言わず、皆で盛り上がればいいジャンと私は考えています。でも、古代乳製品に興味を持っていただくために、チョットだけ理屈をこねさせてください。

そもそも、「穌」と「蘇」の二通りの表記があります。同じモノを昔誰かが書き間違えたのだという考え方と別モノだという考え方があります。話を複雑にしないために、ここでは「蘇」に統一することにします。では、「蘇」とはどんな代物だったのでしょうか。結論から言えば諸説があり、答えは出ていません。第一の説は酸乳をチャーニングしたバター様のものという考え方です。これは先月(2016年9月20日)紹介した「斎民要術(せいみんようじゅつ)」の記載に基づいています。乳皮をすくいとり、これを「蘇」の製造に使う、と書いてあります。しかし、私にはここに書いてある「蘇」の作り方が今ひとつ分かりません。

第二の考えは、乳を濃縮したものという説です。927年に藤原時平が編集した「延喜式」という書物に牛乳を10倍濃縮したものと書いてあります。当時の牛乳の組成は分かりませんが、本当に10倍まで濃縮可能かどうか疑問です。が、まあアバウトに考えましょう。このようにして加熱濃縮されたものは乳糖の甘さと褐変による風味がして、現在、奈良の飛鳥寺や宮崎県の中西牧場さんから購入することができます(写真参照)。


現在、中西牧場で市販している加熱濃縮型の蘇

第三の考えは、延喜式に書いてある10倍濃縮は懐疑的であり、乳皮そのものが「蘇」ではないかという説です。これも、斎民要術に、乳皮を蘇の製造に使うと書いてあることから、乳皮そのものが蘇だったのではという考えです。第二、第三の作り方なら、一応チーズの一種かと思われます。

実は日本のチーズ容器包装史上特筆すべき出来事がありました。朝廷が蘇を献上する貢蘇の命令を発したのが700年。それから22年後には蘇を納品するために用いる容器を櫃(ひつ)から籠に変えるよう命令が下りました。推測ですが、櫃での輸送は、蘇の品質に不具合を生じさせたと考えられます。蘇は11月必着で朝廷に納品しなければなりません。遠方(東は茨城県や新潟県、西は鹿児島県や宮崎県)からは1ヶ月以上かかります。9月中~下旬に輸送を開始したとしても、台風シーズンです。川は氾濫し、道はぬかるみ、土砂崩れもあったでしょう。何日も足止めを喰らった可能性があります。昼間は櫃内の温度が上がり、夜は冷えます。温度変化が大きいことは蘇に限らず乳製品の品質にとって決して好ましい状態ではありません。そこで、風通しがよい籠に変更されたのではと推察します。風通しを良くしても、水分が高いフレッシュタイプでは日持ちしません。したがって、当時の蘇は水分含量を下げた加熱濃縮タイプであったと推測されます。

このようにして納品された蘇は高貴な貴族に健康増進用の薬として食べられました。一般の貴族(う~ん、サラリーマンでいえば部長以下??)の口にはなかなか入らなかったようですが、正月に行われる大宴会にて甘栗とともにふるまわれたそうです。どれ位の量が出されたかは不明ですが、貴重品ゆえに極少量だったのではないでしょうか。しかし、「マッチ箱程度」の大きさという記録もあるそうです(廣野卓、「古代日本のチーズ」、角川選書)。マッチ箱程度であれば、今のチーズにして20-30g程度でしょうか。蘇が加熱濃縮タイプであれば、乳糖を9-13g程度含みます。だとすれば、「乳糖不快症」(2016年6月20日)によりお腹の調子が悪くなる貴族もいたと思われます。宴会の途中で、「失礼、ちょっと厠へ。」なんていう会話が交わされたかもしれません。

やがて、武士が台頭し、貴族の没落とともに蘇も消えてなくなります。しかし、千葉県嶺岡牧が明治維新により徳川幕府の管理から民営化された時、白牛酪(煉乳)の製造が一気に広がった史実をみても、蘇が本当においしい乳製品であれば、蘇を作っていた人たちが自分たちの食べ物として密かに作り続けてもいいハズです。ソですね(コラッ、ダジャるでない!)。しかし、タイムカプセルの中に封印されてしまったのです。