フロマGのチーズときどき食文化

イチジクとチーズの長い旅

2013年7月15日掲載

まずミルクを凝固させる

この6月にある小さなチーズ工房でちょっとびっくりするような話を聞いたのです。所は北イタリアのピエモンテ州の小さな村の事でした。詳しくは後ほど書きます。

改めてチーズはどうやって作るか。まず原料になる乳(ミルク)から水分を取り除いて固形分(蛋白質や脂肪等)を集めなくてはならない。それにはいくつかの方法があります。一つはミルクを火にかけて煮詰め固形分を取り出す方法で、飛鳥時代に天皇に収められた「蘇」という日本最古の乳製品がそれです。製法については諸説ありますが、これが日本の最初のチーズだという人もいます。いま一つは、乳に乳酸菌を繁殖させ乳酸菌がつくる酸でミルクを凝固させる方法で、現在のヨーグルトと考えればわかりやすいでしょう。このヨーグルトから水分を漉し取ると白い塊が残りますね。これがチーズなのです。古代の最初のチーズはこのようにしてつくられたのでしょう。

イチジクの樹液でミルクを固めた

もう一つ乳を凝固させる重要な方法は凝乳剤(レンネット)を使って効率的に固める方法です。火を使うやり方は、膨大なエネルギーと時間がかかり実用的ではありません。乳酸菌の力を利用する方法もある程度時間がかかり、しかも固まり方がゆるく歩留まりが悪い。そこで、人類はレンネットで乳を固めるという画期的な方法を見つけ出すのです。

 

乾燥させた子牛の第四胃袋

最初のレンネットは植物から取り出したようです。紀元前8世紀頃ギリシャの大詩人ホメロスによる叙事詩「イリアス」にはイチジクの樹液でミルクが見る見る凝固していく様が書かれているのです。ギリシャ時代の初期にはイチジクの樹液で乳を固めるのが一般的だったようです。時代は下って反芻動物の乳飲み子の胃袋から取り出したいわゆる動物性のレンネットを使うようになります。ギリシャの哲学者アリストテレス(紀元前1世紀)の著作にその方法が書かれていますが、今では一般化されているこの方法はこの時代に確立されたのでしょう。20世紀も後半になると微生物からとった凝乳酵素が広く使われるようになっていきます。

乾燥させたアザミの花

この6月の初め北イタリアでムラッツァーノというDOP(原産地名称保護)の羊乳チーズをつくっている丘の上の小さなチーズ工房を訪れました。一通り製造現場を見学した後で、お定まりのチーズの試食です。勉強熱心な同行の仲間たちは現地のチーズ職人も驚くような質問を浴びせたのですが、最後に私は何気なく「レンネットは羊の胃袋を使ってますか」と質問すると、今は薬局などで買ったものを使ってますとの事。微生物から精製したものを使っているんだなと納得。そのあと、女性の職人はポツリと、秋には「イチジクの樹液」を使います、といった!これにはびっくり。植物性のレンネットはポルトガルやスペインの一部で乾燥させたアザミのオシベから抽出したものを使っているのを実際目にしましたが、イチジクはこれまで聞いたことがなかった。少し古い資料で、スペインのメノルカ島で今もイチジクの樹液が使われているという記録を読んだのが最後で、以来この話を聞くことがなく、この方法はすでに絶滅したかと思っていたのでびっくりしたのです。意表を衝かれたので、なぜいまイチジクなのか、これを使うとどのようなチーズになるのか、など大事な質問をするのを忘れてしまったのが残念な事でした。何しろイチジクとチーズは3千年もの長い旅の果てに、今もそこにあったのですから。